「手放す」ことは失うことではない

こんにちは。コラム担当の湯川あゆみです。

最近、デヴィッド・ホーキンズ博士の
『手放しのすすめ』を読んでいて、
あれ?これって、
日本にも昔からあった智慧と同じじゃないかな
って思いあたりました。

「手放しLetting go」は、
「明け渡し」という言い方をされることもあり、
執着や抵抗を手放し、
人生の流れに身を委ねるという考え方、実践のこと。

よく「他力本願ではいかん」なんてことが言われますが、
自分軸がないまま他人や神仏にお任せしてしまうのは、
たしかにちょっと危険。

でも本来の「他力」はそういう意味ではないんですよね。
もともとの意味は、
浄土真宗で語られる「おまかせ」の世界。
これが今で言う
「手放し」「明け渡し」とかなり近いと私は感じます。

自由と安心に生きた妙好人(みょうこうにん)

ところで、浄土真宗には「妙好人」と呼ばれる人たちがいました。
多くは学者や僧侶といった学のある人たちではなく、
ごく普通の農民や町人です。

このごく普通の人たちは、厳しい修行や学究からではなく、
阿弥陀如来さまへの深い信仰によって、
「悟り」と言われる状態に近い、自由と安心を実現していました。

何が起こったのでしょう?

今風に解説すれば、
「自分の力だけで人生を何とかしようとする思いを手放すことで、
驚くほど穏やかで自由な生き方に辿り着いた」
ということになると思います。

これは「何も考えない」ということではなく、
もちろん、盲目的に信じることでもないんですね。

盲信とは、自分で感じること、考えることを放棄してしまうこと。

本当の「明け渡し」は、自分の感覚を大切にし、
努力もした上で、
最後は自分の力ではどうにもならない部分を、
自分を超えた大きな存在や生命の流れに委ねることだと思います。

明け渡しといい人の違い

そして面白いのは、妙好人と呼ばれる人たちは、
決して道徳的になったわけではないということ。

「私が怒ったり嘆いたりしたところで、
そんなことは大した問題ではない。
阿弥陀様のお慈悲は、
私がどんな人間だろうと救ってくれるくらい大きい」

こんなことを語っている妙好人さんもいました。

現代風に言えば、
「生命の源、大いなるものは、
いつも私を見守り、支えてくれている。
私が不完全であることなど関係なく」
といったところでしょうか。

「明け渡し」の境地と「いい人」になろうとすることは全く別物です。

明け渡しには、
「私という存在はそのままで愛されている」という
大いなるものと自分への信頼が前提となりますが、
いい人になろうとするのは、
周囲からの評価が基準です。

本来の自分に戻っていく

ホーキンズ博士の言う「手放し」と、浄土真宗の「他力本願」。
言葉は違っても、そこにあるものはとても近い。

今の自分を受け入れ、
必要以上の抵抗や力みを手放すこと。
そして、自分を超えた存在のはからいを信じて、
流れにゆだねること。

おひさまでタイムウェーバーのセッションをしていても、
人生の流れを信頼できるようになっていくことで、
本来の自分とつながり、
安心を土台に生きていけるようになっていきます。

手放すことは、
自分を失うことでも、あきらめることでもありません。

自分を超えた大いなるものを信頼し、
本来の自分に戻っていくこと。

それが、本当の意味での「手放し」であり、
「明け渡し」「おまかせ」「他力本願」なのだと思います。